183号編集前記
ラジオが登場(日本放送協会の設立は対象15年8月)するまで報道メディアは新聞だけだった。大阪は新聞の王国で、朝日新聞(明治12年刊)も毎日新聞(明治21年刊)も大阪で生まれた。
その大阪で、言論・情報が早くに東京に一極集中、報道の国家統制、軍部による情報の一元的支配をもたらす大きな事件が起こった。世に言う「白虹事件」(大正5年8月)である。
「政府権力と対立した新聞が、存亡の危機においこまれたわが国新聞史上最大の筆禍事件」(『日本新聞通史』春原昭彦著 現代ジャーナリズム出版会刊)といわれる白虹事件とはどういうものだったのか。
その頃の新聞は激烈で、内閣を相手に真正面から攻撃するのである。「寺内(正毅)内閣の成立せんことは、妖怪の出現に異ならず」、大正5年10月6日、組閣成立の三日前、「大阪朝日」は社説で対決姿勢を鮮明にする。そこへ「米騒動」が勃発。低所得者は食えなかったのだ。
米価の冒頭は成功したロシア革命(大正6年10月)を転覆させるシベリア出兵によるものであった。帝国主義列強も加わって出兵、最大7個師団7万5千人がバイカル湖以東の鉄道・町・隊商路・港・河川を制圧した。そのための糧秣が大量に必要だった。
大正7年8月、富山県の漁村で起こった米騒動は9月、関西各地に広がり、中でも大阪は米屋や米穀取引所などへの放火や略奪が最も激しかった。
国内に政治不信が充満した。ロシアで得る権益、そのためのシベリア出兵で逃げ切ろうとする寺内内閣に「大阪朝日」は厳しい論調を浴びせる。
「彼等は誠司道徳を弁へず(略)諸物価を撹乱し、殊に米価を騰貴せしめ、国民生活を脅かし、以て茲に騒動を惹起せしめたのである」と。内閣の失敗を弾劾して記者大会がしばしば開かれた。大正7年8月26日、「大阪朝日」は前日の記者大会の様子を社会面トップで報じ、次の見出しを掲げた。
「寺内内閣の暴政を責め/猛然として弾劾を決議した」。記事は新聞人による攻撃演説を伝え、参会者は食事に移った、と。さらに書く。
「(食卓に就いた参会者は)肉の味酒の香に落ち着くことができなかった。金甌無欠の誇りをもった我大日本帝国は、今や恐ろしい最後の審判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として肉叉を動かしている人びとの頭に電のように閃く」
これが「白虹事件」の起こりであった。中国の故事にいう。白い虹が太陽を貫くのは天下大乱、不吉の兆の謂である、と。
新聞の論難に折あらばと狙っていた軍部と右翼はこの機会を逃さなかった。天子様の御政道下、不吉の言辞を弄すること、朝憲紊乱、新聞紙法違反にあたるというのである。
当局の姿勢は強硬、とりわけ右翼の攻撃がすさまじかった。「大阪朝日」は社長を更迭、編集局長他、有力社員を退社させ、「不偏不党、評論の穏健妥当」を内外に表明した。
先の記事を書いた大西利夫記者は禁固二か月、直ちに下獄して「白虹事件」は幕を閉じた。新聞の「不偏不党」、つまり長年の体制寄りはこのときから始まる。
かつてこの国が向かえた大きな曲がり角であった。大正デモクラシーのもと、大阪発の右旋回である。5年後、関東大震災、その4年後の金融恐慌から世界恐慌。そこへ歓呼が突如湧き、十五年戦争の悲劇的酩酊が始まる。
無論、その時代とは訳が違う。が、橋下体制下、大阪維新の会への国民的酩酊は既に大阪から広がっている。
(木津川 計)
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