167号編集前記 「趣味人」とはどういう人物を指すのか。 ある日、広辞苑を開いて、なかったから大辞林に当たったが、ない。そんな馬鹿な、で、全十三巻の、載っていない日本語のない日本国語大辞典を、探せども探せどもなかったのである。現に生きて使われている「趣味人」を日本の国語辞典はすべて黙殺ないし抹殺しているのだ。なんということか。僕らは今日まで「趣味人」を意味不明のまま使ってきたのである。なぜ国語辞典は収めないのか、腹立ちもこめて『〈趣味〉の社会学』(日本経済新聞社)を僕が上梓したのは一九九五年だった。
“脱亜入欧”のために勤労の美徳感が定着していった。しばしも休まぬ「村の鍛治屋」や志を果たしていつの日にか帰らん「故郷」を子どもらに歌わせたのも、ひとえに欧米列強と肩を並べるためだった。そんな教育の効果は絶大で、日本人の世界に冠たる勤勉と長時間労働性は見事に育ち、国際的認知を受けるまでに広まったのである。まことに猛然、火を噴き続けた「少年よ大志を抱け」の近代化路線は、「趣味人」なる人種の存在を許さなかったのである。
それでは困る。だから拙著で「趣味人」とは次の資質を持った人、と指摘した。@風雅を愛する人、A清貧を好む人、B悠揚迫らざる人、C人生を楽しみながら生きている人、の四点である。清貧? と思われるかもしれない。貧乏人を指すのではない。中野孝次さんは『清貧の思想』で何一つ不自由しなかった本阿弥陀光悦や池大雅を挙げている。私欲を追い求めず、質素に暮らしている人の謂だ。 この国の近代化は、@に対しては洋風化を、Aには欲望の充足を、Bにはスピードで、Cは論外、としたから「趣味人」を認めてはならなかったのである。が、少数ながら「趣味人」はいる。「○○人」を広辞苑はおよそ九七〇語も載せているから来るべき第六版ではぜひ収められたい、という意見書を僕は三年前に岩波書店の広辞苑編集部へ送った。
返事が届いた。〇四年八年二八日付けで編集部の増井元氏は「幸い『広辞苑』も次の版にむけての改訂作業を開始いたしておりますので、新たな収録につき検討させていただきます。お礼まで」という内容だった。
ようやく岩波も「趣味人」を認め、許す時代になったのだ。中年を相手の講演でも「広辞苑の次の版は『趣味人』を初めて収める。皆さん喜べーっ」と申してきた。昨秋、第六版が一月一一日発売される旨の大きな広告を新聞で見た。
新たに一万語が加えられるという。「ニート」「メタボリック症候群」や「めっちゃ」「イケメン」などが選ばれた。その一つに「趣味人」も入っている。恐らく簡素に「人生を楽しみながら生きている人」という説明になるのだろう。一月一一日、「書店の店頭で第六版を見てください。『趣味人』が載ってたらバンザーイッ、やっと楽しみながらの人生を送れるのだ、そう思って喜びましょう。万が一、なかったら、しゃあない、額に汗して働き続けいっ! という時代は続くのです」と言ってきた。一月一一日、待望の第六版を書店店頭で見た。「趣味人」は収められてい・な・か・っ・た。 (木津川計)
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